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社長山田孝也の生い立ち
~家づくりにかける想い~ 

山田家の長男として誕生
昭和43年1月12日
福島県いわき市にて山田家の長男として誕生


両親が公務員で父親は野球しかやっていないのでは?というくらい小学生から60代前半まで野球。
国体も3度出場、監督2度、選手として1度。

物心がついた頃には「たかやは将来プロ野球選手になるんだ!」と言われていた。
子供なりに野球、ソフトボールと頑張っていた。
母親は特に趣味というものは無かったが、共働きだったため私と弟は近所のお友達の家に各々預けられ毎日迎えに来てもらう日々が続いていた。

父親は平日の夕方も野球の練習をするくらいほぼ毎日のように野球でした。
そのため私は母方の祖母の家に遊びに行くことも多く、私は初孫だったこともあり、祖母にはすごく可愛がってもらい、私も祖母が母親よりも好きでした(笑)
よく祖母の家にも泊まってました。

弟はというと5歳下だったので「かわいい弟」という感じであんまりケンカをした記憶が無いくらいです。よく遊びにも引っ張ってました。

小さい頃、私はわんぱくで電車の急停止ボタンを押して電車を停めてしまったこともあるようです(汗)その時は本当駅員さんに相当謝ったそうです!親戚のおばさんには大人になってからも言われてます(笑)

そんな落ち着きのない私を落ち着くように習字をやらされました。そうすると私も集中することを覚えました。
メキメキと上達し、小6で準五段まで取り、やめました。
そのおかげもあり、書道はよく金賞も取っていました。(絵もたまに!)

そんな落ち着きのない私でも小学校時代は弱い者、特に女性には優しかったし、運動神経も良く、自分で言うのもなんですがソコソコモテました(笑)

のびのびと育った私ですが、実家はとても経済面で厳格な家でした。私は中学校まで外出したり、遊びに行くのでもいつでもジャージでしたね…。自分も服にそんなに興味が無かったのもありますが(笑)

そんな小学生時代から父親の背中を見て育ったため、中学では野球部に入り、3年生の時にやっと背番号はもらった。学級副委員長、生徒会の役員もこなし、昼休み以外の休み時間も「一問一答形式の本」を毎日勉強するようになり、いわき市で一番の高校を目指しましたが努力足りず…でした。一度目の挫折。でも頑張った!

高校では同中学の野球部が誰も野球部に入らなかった事で私もちょっとガラの悪い野球部に一人で入部する勇気がなく帰宅部となり、自宅や勤労者体育館で筋トレする日々が続く青春時代でした。

今でも思う! 「高校でも野球をやると思っていた!」父親がガッカリした時の顔を!
ここが二度目の挫折。

その後、公務員の父親が、自宅でよく図面を書くのを見ていたこともあり、私も図面に興味があり、こんなものを作ってみたいと思い工業大学建築家に入学。
親からはずっと国公立大学でなきゃダメだよ!と言われ続けましたが、結局親不孝な私は私立大学となってしまいました。ここが三度目の挫折。
それも実家を離れ、仙台へ。
バブル期の大学入学で周りは浮かれていました。私も浮かれていましたが、部活もアメリカンフットボールをやり続け、と同時に筋トレを毎日のようにやり続けた。少しでも自分のお小遣いも増やしたい思い、工事現場や清掃の単発のアルバイトもやっていた。
ディスコにも行きたかったし、DCブランド(懐かしい!)の服も欲しかったし、彼女とのデート代も欲しかったし…とにかく、大学時代は楽しかった思い出。

1990年の春、大きな夢と目標を持って社会人デビュー。一人前の技術者になるべく、現場監督として大手ハウスメーカーに就職をし、そのまま仙台で働くことになりました。

初めての現場は先輩と2人で補助的ではあるが20棟の建売を担当した。バブル時代、帰りは夜中、もしくは会社で寝泊まりなんてことも…。休みも月に3回くらい。

当時は今より10キロほど細かったのですが、重い荷物の移動や片付けすることも多く、なんとかたまにする筋トレもあってか当時のニックネームは“マッチョ”と呼ばれたことも…
朝まで飲み明かす同期との飲み会も最高でした。

その頃、私はジェットスキーをやっていて、その海でボディーボードをやっていた妻と共通の友人を介して海で出会いました。一緒にジェットスキーに乗ったり、仙台の花火大会とすごく充実した夏を過ごし、その後結婚しました。バブル期もあってか毎日夜遅い私と結婚してくれたことに感謝しかありません。

子供も娘2人ができ、子育ての件でも妻ともたくさんケンカをしました。それでも娘2人のために、妻のため、自分のために頑張ってきました。20代でマンションも購入しました。

その後、系列会社との合併もあり社内のルールも厳しくなり、やりにくくなり、けど、それは本来やるべきこと!住宅とアパートの現場監督としてお客様や関係業者さん、そして社内の人間と、たくさんの出会いがあり、たくさんの喜びや、たくさんの感謝と、それも今では宝物となりました。最後には工事課の責任者にもなりました。

ただ、私は満足してはなく、悩んでもおりました。ハウスメーカーは分業制で営業・設計・工事と分かれており、私は工事課におりましたので図面との照合、社内の納まり規定の照合、安全管理、コスト管理…責任者になってからは経営も考えるようになりましたが…

いつしか、ハウスメーカーに入ってから17年たった39歳の時、限界を感じたのと、独立して工務店を経営していきたいという夢をいだくようになった!ここが四度目の挫折。


そして夢!!

本当の意味でお客様にパーソナルのサービスをしようと思った時に、ハウスメーカーでは制限があるし、色んな商品を扱うことができない。お客様のニーズに合わせることができない…。そしてなんといっても高い!と思うようになり、営業の段階からお客様と直接お話ができるという事と、その仲間、関係者と共に頑張る。

チームを組んで皆がしっかりと輝き、「仕事は素晴らしい」という事を子供の代まで繋げられ「こんな仕事がしたい」と思い2008年に起業しました。

2011年3月11日14時46分。

「ゴゴゴーッ!!!」

「ドーンッ!!!」

地響きと衝撃。
道路で信号待ちしてましたが、「地震だ!!いったい何が起こったんだ…」
「俺たちはどうしたらいいんだ…」「他の場所にいる人たちは無事なのか…」
不安だけが大きくなっていきました。

たまたま自宅近くにいた私はすぐ自宅に戻り、鉄筋コンクリートのマンションでしたが壁がひび割れでとんでもないことになってました。
建物内部もモノが落ちた状態でぐちゃぐちゃでした。停電になり、水、ガスも使えない状態…そのまま雪の降る寒い夜になり、マンションの他の住人とロビーで過ごすことになり、夕方になって津波がすごいということを他の住人の方から聞きました。

その時は甚大な津波被害とは思うこともなく…余震が続きあまり寝ることもできず一夜を過ごしました。
映像で見ると、戦後の光景のよう…。海沿いは特に甚大なことに…。

東日本大震災。
水とガスが復旧するまで約一カ月。
そんな環境で暮らす中、ふと頭をよぎったこと。
「建物の役割は生命と財産、そして安心した生活を守ることではないのか」

倒れたままの家々を見かけるたびに、今の自分の無力さを感じ、さみしさや悔しさでいっぱいになったあの時の感情を思い出します。
毎日のように石巻へ現場視察、泥出し、リフォーム工事と行く日々、時折、お客様と話していると出てくる涙…。
これからできる限り私たちはお手伝いしていくんだ。
安心した生活を送れる家をもう一度作り直して早く安心してもらいたい!の一心でした。

そう思った時、「何か新しいことに挑戦しなくては!」
建物の役割は生命と財産、そして安心した生活を守ることではないのか。
あの地震の時の感情が強烈によみがえってきました。建築に関わる身として、「安心して暮らせる家」を提供することは、「私の使命ではないか」ここから戸建て住宅をもっと安全な家に!との思いで、地震に強いのはツーバイフォー工法だ!と思い「若い世代の人でも建てられる、永く安心で安全な住宅を提供する」安全な家はツーバイフォーの思いでメーカーに直接価格交渉したり、協力会社にも粘り強く協力のお願いをしました。

私の目指す家づくりは、「地震に強く、耐久性の高い家」そして、「笑顔があふれ幸せを実感できる家」。それだけの家をずっと作っていきました。

だからといってこの建物の商品を作ったところで電話は鳴らず…。そんなにうまくいくほど、甘くはありません。

そうなると自分の足を使うしかありません。協力会社さんへ家を建てる方の紹介をお願いしたり。

やっとのことで最初の注文!協力会社の木材業者さんの担当者の家を建てることができました。これもハウスメーカー時代からお付き合いいただいた協力会社さんのおかげだと大変感謝しました。

この頃、娘達も結婚して各々子供も出来て今では私も孫が3人とおじいちゃんになり、孫に会えることを楽しみに仕事を頑張っております!

その頃、周りではローコスト住宅がニーズで取り組む会社がかなり増え、低価格を売りにした価格競争が始まります。
ただ私はローコストにはしたくない、安いだけの建物なんて、すぐメンテナンスの必要性があると思い、ただ他社との差別化といえばそれも無く…ただただ売ってました。
そうもいかず私もローコストに近づけられればとの思いで価格交渉はしてました。

そんな毎日で、ふと気づいたのです。
私たちを信頼して任せてくれるお客様には正価で注文を受ける。
逆に、何社も見積りをして少しでも安くと交渉するお客様には値引きをして安くする。
「何かおかしくないか!?」「それでお客様に対して誠実であるといえるのか!?」

自問自答する日々が続きましたが、覚悟を決めました。
価格競争からは手を引き、誠心誠意の価格で販売をしていくんだ!と。

ただ、残念なことに「値引きは当たり前」と思われてしまう業界です。

最初の提示価格を高いものにしておき、「何百万も値引きしたように見せる」
という会社が現れ、まかり通っていた業界です。
「どうしておたくは値引きしないのか?」と、責められることもよくありました。正直、とても苦しかったです。ですが、信念を持って決断したことです。
「丁寧な家づくりで満足を高め、信頼してもらうんだ!」と貫き通しました。

お客様とお話ししていくうちに、私の家づくりの考え方に大きな影響を与えました。

「家があるから幸せなのではない」家そのものは、もちろん大切だけれど、「どんな家づくりをするか」
それで幸せが大きく違ってくるのだ!と。「間取り」も「設備」も「価格」も大切だけれど、「どんな家づくりを体験するのか?」
しかも、それこそが後々の家族の関係に大きな影響があることを、身をもって体験したのです。

その経験からライファーは、お客様に寄り添い、親身になって相談できるパートナーとして、女性のスタッフを雇い、メーカーのキャンバサーのご協力を得ました。
多くのお客様にとって初めての家づくり。不安や疑問でいっぱいのお客様にとって、スタッフやキャンバサーのサポートがあることで、「家づくりをもっと楽しむことができるんじゃないだろうか?」

お客様には、「残念だ」と言わせないように。
人生の素敵な思い出となる、「まごころのこもった精一杯の家づくりを提供したい!」
そこから現在も続く私たちの大切なミッション、「家づくりを通して家族の笑顔と幸せを作る」が生まれました。

さらに、東日本大震災の悲劇を繰り返したくないという思いの強さから、新築だけでなく既存住宅のインスペクションにも力を入れたい、とリフォーム事業を立ち上げ、多くの家のインスペクションを行ってきました。
ライファーは創業時から現場の技術と知識を大切にしてきたからこそ、成り立っているリフォーム事業だと思っています。

新築住宅事業をはじめてから、15年の月日が流れました。値引き合戦をしていた多くの他社が倒産したり、震災後宮城で頑張ってこれからも支店や営業所を出すんだと言っていた会社はやはり本店に戻ったり、規模を縮小したりという現実があります。

一時の得のために惑わされず、誠心誠意の姿勢を貫いてきて良かったと今では実感できています。




ずっと変わることのない「家づくりへの想い」

ライファーを信頼して選んでくださった方々と、永年のお付き合いを続けることができるのも、「会社の存続あってこそ」そう考える私の信念は間違ってなかったと思っています。

世の中も変わり、ローコストは超ローコスト住宅をも生み出しました。
今となっては注文住宅を手にすることは難しいことではなくなりました。私たちの家づくりも時代に合わせて少しづつ変化していますが、ずっと変わっていない事、それは…

「家づくりへの想いです」

今この時代、家に対する意識も多様化していると感じています。けれども、私たちが提供する価値は、「家づくりを通して家族の笑顔と幸せをつくる」ということです。
家を建てることで、そこに暮らす家族の笑顔があふれ、人生に幸せをプラスできるように願い、日々学び、新しい技術や知識を積み重ね、より良いものを提供できるように努力をし続けています。
変わらない想いと変わり続ける時代に合わせた家づくり。
ライファーは、これからも挑戦し続ける会社です。



これだけの長文を最後までお読みいただいたあなた、本当にありがとうございます!
家づくりに関するお問い合わせは、お気軽に何でもご相談くださいね。
株式会社ライファー
〒984-0041
宮城県仙台市若林区志波町17-17
キャピタル志波町101号
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